高校の教科書で登場する夏目漱石の「こころ」。揺れ動く人の心が格調高い文章で描かれ、漱石の最高傑作だという声もよく聞きます。

 

しかし…

 

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「・・・」

 

002

「漢字むずかしい…し、はなし長すぎじゃない?」

 

そう、「こころ」は新聞の連載小説として掲載されたのですが、後続の作家が決まらなかったため、当初の予定より大幅に引き延ばされて書かれています。その結果なのか、物語がなかなか進展しない箇所も多くあります。

 

そこで今回、青空文庫で公開されている「こころ」の文章を借り、高校生にもわかりやすく超ダイジェストで解説してみようと思います。一人5役を演じたビジュアルにも注目ください。

 

さらに高校生が楽しめるよう、先生の妻を中心に恋愛模様も写真で再現してみました。

 

【写真で分かる】夏目漱石「こころ」超ダイジェスト版

 

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私は、若い時に出会ったある人のことを原稿に書いていた。

 

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私はその人を常に先生と呼んでいた。

 

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私が先生と知り合いになったのは鎌倉の海岸である。

その時私はまだ若々しい書生であった。

 

私がすぐ先生を見付け出したのは、先生が一人の西洋人をつれていたからである。

 

鎌倉で先生と別れる時に、「これから折々お宅へ伺ってもよござんすか」と聞いた。先生は単簡にただ「ええいらっしゃい」といっただけであった。

 

始めて先生の宅を訪ねた時、先生は留守であった。

すると奥さんらしい人が代って出て来た。美しい奥さんであった。

 

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私はその人からていねいに先生の出先を教えられた。

先生は例月その日になると雑司ヶ谷の墓地にある、ある仏へ花をたむけに行く習慣なのだそうである。

 

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私は墓地に向かい、先生に会って聞いた。

 

「どなたのお墓があるんですか。――ご親類のお墓ですか」

「いいえ。あすこには私の友達の墓があるんです」

「お友達のお墓へ毎月お参りをなさるんですか」

「そうです」

 

先生はその日これ以外を語らなかった。

 

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先生の宅へ向かう私の足が、段々繁くなった時のある日、先生は突然私に向かって聞いた。

 

「あなたは何でそうたびたび私のようなものの宅へやって来るのですか」

 

「何でといって、そんな特別な意味はありません。――しかしお邪魔なんですか」

 

「邪魔だとはいいません。

 

私はさびしい人間です。だからあなたの来て下さる事を喜んでいます。だからなぜそうたびたび来るのかといって聞いたのです」

 

「そりゃまたなぜです」

 

私がこう聞き返した時、先生は何とも答えなかった。

 

かまわずに私は依然として先生に会いに行った。その内いつの間にか先生の食卓で飯を食うようになった。自然の結果、奥さんとも口を利かなければならないようになった。

 

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先生の宅は大抵ひっそりとしていた。高い笑い声などの聞こえる試しはまるでなかった。

 

「子供でもあると好いんですがね」と奥さんは私の方を向いていった。私は「そうですな」と答えた。

 

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「子供はいつまで経ったってできっこないよ」と先生がいった。

 

奥さんは黙っていた。「なぜです」と私が代りに聞いた時先生は「天罰だからさ」といって高く笑った。

 

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私はそのうち先生の留守に行って、奥さんと二人差向いで話をする機会に出合った。

 

私は奥さんに聞いた。「先生はなぜああやって、宅で考えたり勉強したりなさるだけで、世の中へ出て仕事をなさらないんでしょう」

 

「あの人は駄目だめですよ。そういう事が嫌いなんですから。

 

若い時はあんな人じゃなかったんですよ。若い時はまるで違っていました。それが全く変ってしまったんです」

 

「若い時っていつ頃ですか」と私が聞いた。

 

「書生時代よ」

 

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「書生時代から先生を知っていらっしゃったんですか」

 

奥さんは急に薄赤い顔をした。私は、二人の結婚の奥に横たわる花やかなロマンスの存在を仮定していた。

 

私の仮定ははたして誤らなかった。けれども私はただ恋の半面だけを想像に描き得たに過ぎなかった。

 

先生は美しい恋愛の裏に、恐ろしい悲劇を持っていた。

 

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私はある日、先生がこう言ったのを覚えている。

 

「君は恋をした事がありますか。

ないとしても、したくない事はないでしょう。

しかし……しかし君、恋は罪悪ですよ。わかっていますか」

 

「なぜですか」と私が聞いた。

 

「なぜだか今に解ります。今にじゃない、もう解っているはずです。あなたの心はとっくの昔からすでに恋で動いているじゃありませんか」

 

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「今それほど動いちゃいません」と私は答えた。

 

先生は私の言葉に耳を貸さなかった。

 

「気を付けないといけない。恋は罪悪なんだから、――君、黒い長い髪で縛られた時の心持を知っていますか」

 

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「私はそれほど軽薄に思われているんですか。それほど不信用なんですか」

 

「信用しないって、特にあなたを信用しないんじゃない。人間全体を信用しないんです」

 

「じゃ奥さんも信用なさらないんですか」と私は聞いた。

 

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「私は私自身さえ信用していないのです。つまり自分で自分が信用できないから、人も信用できないようになっているのです。

 

私はさびしい人間です。自由と独立とおのれとに充ちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう」

 

その後、私は奥さんの顔を見るたびに気になった。

 

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先生は奥さんに対しても始終こういう態度に出るのだろうか。もしそうだとすれば、奥さんはそれで満足なのだろうか。

 

そうこうしているうちに、私はまた奥さんと差し向いで話をしなければならない時機が来た。先生がある晩家を空けなければならない事情ができてきた。

 

茶の間には綺麗な長火鉢に鉄瓶が鳴っていた。私はそこで茶と菓子のご馳走になった。

 

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「もう一杯上げましょうか」と奥さんが聞いた。

私はすぐ茶碗を奥さんの手に渡した。

 

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「いくつ? 一つ? 二ッつ?」

妙なもので角砂糖をつまみ上げた奥さんは、私の顔を見て、茶碗の中へ入れる砂糖の数を聞いた。奥さんの態度は私に媚びるというほどではなかったけれども愛嬌に充ちていた。

 

私はまっすぐに奥さんを見た。「正直に答えてください。奥さんは先生をどのくらい愛していらっしゃるんですか」

 

「何もそんな事を開き直って聞かなくってもいいじゃありませんか。

 

私は嫌われてるとは思いません。しかし先生は人間が嫌いになんでしょう。だからその人間の一人として、私も好かれるはずがないじゃありませんか」

 

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私は奥さんの理解力に感心した。奥さんの態度が旧式の日本の女らしくないところも私の注意に一種の刺戟を与えた。この時の私は、女というものに深い交際をした経験のないうかつな青年であった。

 

「私は先生に聞きました。私に悪い所があるなら遠慮なくいって下さい、改められる欠点なら改めるからって、すると先生は、お前に欠点なんかありゃしない、欠点はおれの方にあるだけだというんです。そういわれると、私悲しくなって仕様がないんです、涙が出てなおの事自分の悪い所が聞きたくなるんです」

 

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奥さんは眼の中に涙をいっぱい溜めた。

 

始め私は理解のある女性として奥さんに対していた。私がその気で話しているうちに、奥さんの様子が次第に変って来た。奥さんは私の頭脳に訴える代りに、私のハートを動かし始めた。

 

私は奥さんを慰めようとした。奥さんもまたできるだけ私によって慰められたそうに見えた。しかし、十時頃になって先生の靴の音が玄関に聞こえた時、奥さんは急に今までのすべてを忘れたように、前に坐っている私をそっちのけにして立ち上がった。

 

夏。大学を卒業した私は、実家の父親が病気なこともあり、9月まで田舎に帰る事になったので先生の家に挨拶に行った。

 

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奥さんは淋しそうに「じゃずいぶんご機嫌よう。私たちもこの夏はことによるとどこかへ行くかも知れないのよ。ずいぶん暑そうだから。行ったらまた絵葉書でも送って上げましょう」と言った。

 

「どちらの見当です。もしいらっしゃるとすれば」

 

先生はこの問答をにやにや笑って聞いていたが、しばらくすると「時にお父さんの病気はどうなんです」と尋ねた。

 

「どうせ助からない病気だそうですから、いくら心配したって仕方がありません」

 

すると先生が突然奥さんの方を向いた。

 

「静、お前はおれより先へ死ぬだろうかね。

しかしもしおれの方が先へ行くとするね。そうしたらお前どうする」

 

「どうするって……」

奥さんはそこで口籠った。

 

「どうするって、仕方がないわ、ねえあなた」

奥さんはことさらに私の方を見て冗談らしくこういった。

 

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「静、おれが死んだらこの家をお前にやろう」

奥さんは笑い出した。「ついでに地面も下さいよ」

 

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「地面はひとのものだから仕方がない。その代りおれの持ってるものはみんなお前にやるよ」そう言って先生は庭の方を向いて笑った。

 

田舎に帰ってしばらくして、先生に何度か手紙を出したが返事はなかった。しかし9月の半ば、長い手紙が先生から届いた。封筒を開けると、ふと結末に近い一句が私の眼にはいった。

 

「この手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世にはいないでしょう。とくに死んでいるでしょう」

 

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私ははっとして、先生の言葉を思い出した。

 

「私は死ぬ前に一人でいいから、ひとを信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか」

 

私は病身の父を置いたまま、思い切った勢で東京行きの汽車に飛び乗った。私はごうごう鳴る三等列車の中で、また袂から先生の手紙を出して、ようやく始めからしまいまで眼を通した。

 

手紙には先生の過去が書かれていた。

 

そこには、

 

・二十歳になる前に両親を病気で亡くした

・両親の財産を田舎に住む叔父に騙し取られた

・東京の学校に通い、未亡人と娘が住む家に下宿した

 

ということがまず書いてあった。

そしてその下宿先のお嬢さんこそが、将来の先生の奥さんだった。

先生の手紙にはこう書いてあった。

 

先生の遺書

私(先生)が下宿で始めてお嬢さんに会った時、へどもどした挨拶あいさつをしました。その代りお嬢さんの方でも赤い顔をしました。

 

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ある日私は、色々世話になるという口実のもとに、お嬢さんの気に入るような帯か反物を買ってあげたことがありました。その二日後、お嬢さんのお母さん(私は奥さんと呼んでいました)と、たまたま娘の縁談について話をしました。

 

奥さんは二、三そういう話のないでもないような事を、明らかに私に告げました。しかしまだ学校へ出ているくらいで年が若いから、こちらではさほど急がないのだと説明しました。

 

その時にお嬢さんは、いつの間にか向うの隅に行って、戸棚を前にして坐っていました。そしてその戸棚の隙間から、お嬢さんは私が買ってあげた反物を引き出して膝の上へ置いて眺めていました。

 

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しばらくして、奥さんとお嬢さんと私の関係がこうなっている所へ、もう一人男が入り込まなければならない事になりました。自白すると、私は自分でその男を宅へ引張って来たのです。

 

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私はその友達の名をここにKと呼んでおきます。私はこのKと小供の時からの仲好でした。寺に生れた彼は、常に精進という言葉を使いました。私は心のうちで常にKを畏敬していましたが、女性からみれば取り付きようのない人でした。

 

たとえばある日、お嬢さんが「火鉢に火があるか」と尋ねると、Kはないと答えるそうです。では持って来きようというと、いらないと断るそうです。寒くはないかと聞くと、寒いけれどもいらないんだといったぎり応対をしないのだそうです

 

私はただ苦笑している訳にもゆきません。それで私はなるべく、自分が中心になって、女二人とKとの連絡をはかるようにつとめました。

 

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彼は自分以外に世界のある事を少しずつ悟ってゆくようでした。彼はある日私に向って、女はそう軽蔑すべきものでないというような事をいいました。

 

ある日、私が家に戻って来て玄関の格子をがらりと開けると、Kの声がひょいと聞こえました。同時にお嬢さんの笑い声が私の耳に響きました。

 

別の日、街を歩いていると、Kのすぐ後ろに一人の若い女が立っているのが見えました。その女の顔を見ると、それがお嬢さんだったので、私は少なからず驚きました。お嬢さんは心持薄赤い顔をして、私に挨拶をしました。

 

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私は食事の時、お嬢さんになぜKと一緒だったのかを聞きました。すると笑いながら、どこへ行ったかあててみろとしまいにいうのです。

 

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その頃の私はまだ癇癪持ちでしたから、そう不真面目に若い女から取り扱われると腹が立ちました。

そしてあの日がやってきました。Kの方からつかつかと私の座敷へ入って来て、彼の重々しい口から、彼のお嬢さんに対する切ない恋を打ち明けられたのです。

 

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私はしまったと思いました。先を越されたなと思いました。私は彼に、彼の恋をどう取り扱うつもりかと尋ねました。

 

彼はただ漠然と、どう思うというのです。どう思うというのは、そうした恋愛の淵に陥った彼を、どんな眼で私が眺めるかという質問なのです。

 

もし相手がお嬢さんでなかったならば、私はどんなに彼に都合のいい返事を、その渇き切った顔の上に慈雨の如く注いでやったか分りません。しかしその時の私は違っていました。

 

私はちょうど他流試合でもする人のようにKを注意して見ていたのです。私はただ一打で彼を倒す事ができるだろうという点にばかり眼を着けました。

 

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「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」

 

そう私は言い放ちました。

これはかつて、Kが私に向って使った言葉です。私はその残酷な一言でKの前に横たわる恋の行手を塞ごうとしたのです。

 

Kは昔から精進という言葉が好きでした。禁欲だけでなく、精神的に向上して行こうとする道のためには、すべてを犠牲にすべきだと考えていました。

 

「馬鹿だ」とやがてKが答えました。「僕は馬鹿だ」

 

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さらに私は、彼に向って残酷な答を与えたのです。狼が隙を見て羊の咽喉笛へ食らい付くように。

 

「一体君は君の平生の主張をどうするつもりなのか」

 

私がこういった時、背の高い彼は自然と私の前に萎縮して小さくなるような感じがしました。

 

「覚悟、――覚悟ならない事もない」彼の独言のように呟きました。

 

覚悟。私はただKがお嬢さんに対して進んで行くという意味にその言葉を解釈しました。私はKより先に、しかもKの知らない間に、事を運ばなくてはならないと覚悟を極めました。

 

私は仮病を遣って蒲団を被り、Kもお嬢さんもいなくなるのを見計って寝床を出ました。そして奥さんに向かって突然「奥さん、お嬢さんを私に下さい」といいました。「下さい、ぜひ下さい」といいました。「私の妻としてぜひ下さい」といいました。

 

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奥さんは「あげてもいいが、あんまり急じゃありませんか」と聞くので、私が「急に貰いたいのだ」とすぐ答えたら笑い出しました。

 

そうして「よく考えたのですか」と念を押したのちに、「宜ござんす、差し上げましょう」といいました。話は簡単でかつ明瞭に片付いてしまいました。

 

お嬢さんに承諾を得たいと私が注意した時、奥さんは「大丈夫です。本人が不承知の所へ、私があの子をやるはずがありませんから」といいました。

 

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Kに対する私の良心が復活したのは、何も知らずに帰ってきた彼が「病気はもう癒いのか、医者へでも行ったのか」と聞いた時でした。

五、六日経った後、奥さんは突然私に向って、Kにあの事を話したかと聞くのです。私はまだ話さないと答えました。

 

「道理でわたしが話したら変な顔をしていましたよ。あなたもよくないじゃありませんか。平生あんなに親しくしている間柄だのに、黙って知らん顔をしているのは」

 

私は驚きました。

 

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彼は微笑を洩らしながら、「おめでとうございます」といったまま席を立ったそうです。それから「何かお祝いを上げたいが、私は金がないから上げる事ができません」といったそうです。

 

勘定して見ると奥さんがKに話をしてからもう二日余りになります。その間Kは私に対して少しも以前と異なった様子を見せなかったのです。しかし、謝ろうか迷っていたその晩に、Kは自殺して死んでしまったのです。

 

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私の眼は彼の室の中を一目見るや否や、あたかもガラスで作った義眼のように、動く能力を失いました。私は棒立に立ち竦みました。

 

それが疾風のごとく私を通過したあとで、私はまたああ失策ったと思いました。もう取り返しが付かないという黒い光が、私の未来を貫いて、一瞬間に私の前に横たわる全生涯を物凄く照らしました。

 

そうして私はがたがたふるえ出したのです。

 

Kの自殺を奥さんに告げたとき、私は奥さんの前へ手を突いて頭を下げました。「済みません。私が悪かったのです。あなたにもお嬢さんにも済まない事になりました」と詫まりました。

 

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しかし事情を知らない奥さんは、「不慮の出来事なら仕方がないじゃありませんか」と慰めるようにいってくれました。お嬢さんは泣いていました。

 

私は彼の生前に雑司ヶ谷近辺をよくいっしょに散歩した事があります。Kにはそこが大変気に入っていたのです。それで私は笑談半分に、そんなに好きなら死んだらここへ埋めてやろうと約束した覚えがあるのです。

 

私はその約束通り、Kを雑司ヶ谷へ葬りました。そして私は私の生きている限り、Kの墓の前に跪いて月々私の懺悔を新たにしたかったのです。

 

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その後、私が大学を卒業して半年も経たないうちに、私はとうとうお嬢さんと結婚しました。私も幸福だったのです。けれども私の幸福には黒い影がついていました。私はこの幸福が最後に私を悲しい運命に連れて行く導火線ではなかろうかと思いました。

 

結婚した時、妻が二人でKの墓参りをしようといい出しました。私は意味もなくただぎょっとしました。妻は二人揃ってお参りをしたら、Kがさぞ喜ぶだろうというのです。

 

私は妻と顔を合せているうちに、卒然Kに脅かされるのです。つまり妻が中間に立って、Kと私をどこまでも結び付けて離さないようにするのです。妻のどこにも不足を感じない私は、ただこの一点において彼女を遠ざけたがりました。

 

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そして、Kを裏切った私は、自分もあの裏切り者の叔父と同じ人間だと意識した時、急にふらふらしました。

 

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ひとに愛想を尽かした私は、自分にも愛想を尽かして動けなくなったのです。

 

私の胸にはその時分から時々恐ろしい影が閃きました。私はただ人間の罪というものを深く感じたのです。その感じが私をKの墓へ毎月行かせます。そして自分で自分を殺すべきだという考えが起りました。私がそう決心してから今日まで何年になるでしょう。

 

同時に私だけがいなくなった後の妻を想像してみるといかにも不憫でした。母の死んだ時、これから世の中で頼りにするものは私より外になくなったといった彼女の述懐を、私は腸にしみ込むように記憶させられていたのです。私は妻のために、命を引きずって世の中を歩いていたようなものです。

 

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すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になり、乃木将軍が殉死しました。私は妻に向ってもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだと言いました。妻は冗談だと思っていました。

 

私は妻を残して行きます。私がいなくなっても妻に衣食住の心配がないのは仕合せです。この手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世にはいないでしょう。とくに死んでいるでしょう。

 

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最後に、このことは妻には知らせないでください。私が死んだ後でも、妻が生きている以上は、あなた限りに打ち明けられた私の秘密として、すべてを腹の中にしまっておいて下さい。(おわり)

 

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「・・・」

 

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「というか、この先生の性格悪すぎじゃない?」

 

実際、「こころ」を授業で読んだ女子高生が、わけの分からない理由で妻を残して死んだ先生は勝手すぎるという感想を抱くことは多いそうです。

 

しかし、「こころ」には驚くべき説があるのです。その説を参考に、「こころ」の「それから」をご紹介したいと思います。

 

【写真で分かる】夏目漱石「こころ」の「それから」

 

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私はやっと、先生のことを原稿に書き終えた。

 

先生は遺書で、自分の人生は私のみに打ち明けられた秘密として、すべてを腹の中にしまっておいて下さいと言っていた。

しかし、私はこの小説「こころ」の冒頭から「私はその人を常に先生と呼んでいた…」と、広く世間に公開する本の原稿として先生のことを書いている。そう、私は最初から先生を裏切っていたのだ。

 

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先生が残した妻とともに。

 

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「おれの持ってるものはみんなお前にやるよ」

 

先生は生前に妻に言っていた約束を果たした。 財産と家、そして私をも先生は妻に差しだした。 自分の命を犠牲にしてまで。

 

「あなたの心はとっくの昔からすでに恋で動いているじゃありませんか」今から考えると、先生は全て知っていたのだ。

 

思い返せば、子供の話になるたびに奥さんは私を見つめた。もっとも当時、私の心には何の同情も起らなかった。子供を持った事のないその時の私は、子供をただうるさいもののように考えていた。

 

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無論、先生が生きているときに奥さんとは何もなかった。ただ旅先から度々絵葉書をくれただけだった。

 

私は箱根から貰った絵端書をまだ持っている。日光へ行った時は紅葉の葉を一枚封じ込めた郵便も貰った。それで十分だった。

 

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奥さんは先生を愛していた。

奥さんはKも愛していたし、きっと私も愛しているだろう。

 

先生は死んだ。それは明治天皇への殉死であり、Kへの殉死でもあった。ちょうど先生の恋にKが邪魔だったのと同じように、先生は自らを邪魔にして、奥さんのために死んだのだ。

 

「妻を頼む」

 

手紙には書かれていなくても、私は先生が何を言いたかったか分かった。先生は慎重だった。奥さんをとりまく見取り図を手紙で詳細に解説し、奥さんをできるだけ丁寧に扱うように私をしむけた。

 

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そして先生は子供のように純真だった。しかし果たして純真なまま、人は大人になれるだろうか。先生は大人として裏切りと狡猾を引き受けて生きていくよりも、誰かのために犠牲になることを選んだ。

 

「かつてはその人の前にひざまずいたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載せさせようとする」

 

そう先生が言ったように、先生は自らを私の足元に投げ出したのだ。私を踏みつけていけと。父と先生を倒して、人は大人になるのだ。

 

だから今、私は先生の願いを裏切り、先生の人生を書いている。本ができたら、まずは最初に妻に読ませたいと思う。 きっと彼女は泣きながら笑うだろう。

 

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こころ。私は今、彼女をそう呼んでいる。(おわり)

 

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「なるほど!」

 

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「先生、めっちゃいい人じゃん!」

 

さて、今回の写真で分かる教科書(ヴィジュアル系教科書)はいかがでしたか?夏目漱石の「こころ」にはいろんな説があるので、ぜひ様々な視点で楽しんでほしいと思います。

 

写真&文章:劇団Webライター

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ライター&モデル陣によるWebコンテンツの制作集団  → 最近の企画

 

(あとがき)

「こころ」の解釈には諸説あり、今回の話のように、青年と奥さんが恋仲になるという説や、近代的自我による孤独の話だとか、ボーイズラブの話だとか、あらゆる説があります。

 

まだ書かれていない説は、青年の父親の視点を中心にしたものくらいだともいう説まで。しかし父親は病気で基本は寝たきりなので、どうにも書きようがない。それにしてもとにかく諸説多い小説なのです。

 

むしろ、このような解釈の多さがこの小説の特徴です。多くの謎や伏線や矛盾を解決せずにそのまま放置しているから、どのような解釈も出来てしまう…読者によって姿を変える小説なのです。

 

私は様々な解説を調べているうちに、ただ一つ、十分に書かれていない説があると思いつきました。先生が自殺したのは、奥さんの幸福のためではないかというものです。

 

そもそも他人のために自殺する人などいるでしょうか。しかし私は実際に、自分の子供の未来のために自殺した母親を知っています。

 

それは世間一般から見れば、奇妙な願いかもしれません。しかしそんなチグハグなものこそ、理路整然としたものよりもよっぽど人間らしいと私は思うのです。

 

この記事は、小説の文章を青空文庫から借り、解釈については次の2冊をヒントにしました。いずれも面白い本なのでオススメです。

 

・『こころ』大人になれなかった先生(石原千秋)

・夏目漱石『こころ』をどう読むか(石原千秋 責任編集)